爆発しそうな気持ちを吐き出しておきたいという気持ちから文章を書き始めた。いちばんはじめのころは詩を書いていた。
振り返ってみようと思っても、ものを書き始めた頃のことをもうあまり思い出せないなと思った。
児童文学ばかり読んでいたけれど、遠藤周作太宰治から少しずつ文学作品に触れていった。家族との関係が息苦しく寒々しいものであったから本という逃げ道をみつけて貪るように小説を読んだ。アートスクールが歌詞に引っ張っていた中原中也とか、遠藤周作から派生したフランス文学とか福永武彦とか、ドストエフスキーとか色々読んだ。内容なんか忘れているけれど、自分の苦しみを言葉にする訓練にはなって、そこから自分をとりまく状況への客観的な視点を持つことができるようになった。
今はもう物語をかきたいとも、満足いくものを自分がかけるとも思っていない。数年絵をやったからかもしれない。小説は書くこともあるけれど、自分は感情の発露として文章を使っているので、構造的に書くことができないため物語の構成を組み立てられないのだ。ただ、もしまた書くとしたら、子供に向けた児童文学のようなものを書いてみたいと思っている。

今まで好きになった人はみんな(といっても本当に少ない)文章を読んで惹かれた。彼らには共通項があるような気がしていて、どことなくガラスの向こう側にいるような、それでいてとても繊細で強い感受性を持っている人たちだった。
概ね感情の発露は人の平均よりもずっとすくなく、その一方で深い海のように大量にたたえられた感覚を持て余しているようにも見えた。そのゆたかさが私には美しいとみえた。
いま好きな相手もそうだ。彼の文章は静かに降る霧雨や、五月のぬるい透明な川の流れのようだった。

彼が過去に書いた文章を読むと私は鼻の奥がツンとして泣きそうになる。でもそれがなぜなのかはわからない。わかるのかもしれないけれど、その感覚をつきつめて言葉にしたいと今は思わない。
わたしたちは永遠に触れ合うことがないのかもしれないけれど、かつてともに同じ夢をみていたのではないかと思うことがある。
きのうみた「心と体と」という映画は、鹿になり雪の森をさまよう夢をみた男女がひかれあうものだった。
彼らが「同じ夢を見た」という事実は、その実それほど重要ではないとわたしは思う。どんな恋人たちも、理由なく惹かれあったのだとしたら、きっといつか同じ夢をみたことがあるということなのだと思う(これは比喩)。
すくなくともわたしはそのようにして人を好きになるし、そう感じられない人にはどうしても心が動かない。
人並みに誰かを好きになってみたいと無理をしてみても、自分が美しいとみた人たちのことが頭をよぎった。

自分の手からすべてのものがこぼれおちていって、わたしには何一つ残らなかったとしても、いいのかもしれないと最近は思う。
しかしそれは、とてもおずおずとしたかたちでさしだされる考えだ。わたしは自分の欲望や不安から、完璧に逃れられるとは思っていない。ただ昔よりも、不幸がどこかありきたりな幸福と同じようなわざとらしさを含んでいることもあるのだとわかっただけだ。
幸福も不幸も同じくらいの重さで存在している。わたしたちは泣くしかないこともあるだろうし、血を流さなければいけないこともある。
しかしそれも、大きなひとつの了解––––自分たちの目からは丁寧に隠された––––のもとにあるのだという気がするのだ。

わたしはあなたにさよならなんて言いたくはない。
言いたくはないのだけれど、それだけがしんじつだとは思えないくらいには、幸福になったんだと思う。

失恋をしたらたくさん泣くだろうか。
あなたの声が聞きたい。