物語が始まるには、そこになんらかの美しさがなければならない。
日常とは概して物語とはかけ離れたところにあり、ある種の麻痺の感覚をともなって、水面を這う油のようににび色の軌跡を描きながら続くものである。その油の模様は常に移ろい続け、やりなおしがきかない。だから時々でそれらの模様はとても美しかったり、目も当てられないほど汚らしかったりする。私たちは油の軌跡の美しさや汚らしさを瞬間瞬間に思い出しながら、いままさに移ろい続けるその色をじっと眺めている。

引きこもりの青年をプラネタリウムへ連れてゆく美しい顔の女子高生。二人は決して対話を交わさない。それは引きこもりの青年が人と話すことを忘れてしまったからであり、また、ひとたび対話をすれば、お互いがお互いを絶望的なまでに憎んでしまう、ということがよくわかっているからである。
都会の真白い喧騒の中を泳ぎ渡りながら、二人は放心を味わう。二人を結びつける沈黙は遥かな広がりをたたえて、無音の海、或いは一枚の透明な硝子製の皮膜になる。
二人は二人の孤独を重ね合わせるような愚かな真似はしない。共鳴すること、それは破滅へ続くものだからだ。共鳴すること、それは互いを互いの中に飲み込もうとする、あるひとつの暴力だからだ。
二人は二人の孤独をただそこにある孤独として隣に置く。寄り添い合うこともせず、重なり合うこともせず、ただ沈黙というものを守り続けながら、二人は陽光に漂白された都市の片隅にあって、かろうじて孤独から逃れているのである。

世の中は共感と同情と批判と憎しみばかりで出来ていて、ただ黙って隣に置かれているものというのはなかなか見当たらない。でも一番必要なのはそれだ。敵でも味方でもない空のような(そして空よりも身近な)誰かの、その息遣いと体温なのだ。