小さな頃、まだ私が東京都足立区に住んでいた頃、私はよく母との買い物の帰りに近所のロッテリアに寄った。
そこであるとき見た女の爪のことを、私は自習しながら思い出していた。
中年のでっぷりと太った女で、彼女の魔女のような爪には真珠の光沢を持った薄紫のエナメルがこってりと塗られていた。それは爪の凹凸のせいなのか、パールの混ざりが悪いせいなのか、だんだら色で、不気味だった。
私と母は窓際のカウンター席、女はたしかレジの前の空間に並んだテーブルについており、私には彼女の背中と、紫の爪だけが見えていた。女はMサイズのポテトを食べていて、ポテトをつまんで口にすると、エナメルについた油や塩まで、丁寧になめとっていた。
 
なぜこんな光景が突然よみがえってきたのかと考えていたところで、ふと、小学生くらいのころにエナメルを爪に塗って、それを舐めていたことに思い当った。まるであの女の行動をなぞるように、数年後の私はエナメルを爪に塗って、それをそっと舐めていたのだ。

私はたしかに、ある種の禁忌や、罪のようなものを、あの女の爪や舌に感じていた。それは恐怖であったのと同時に、未だ触れることのゆるされていない未知の堕落への予感の、憧れでもあった。私はあの爪の悪夢を見たことまで覚えている。まだ幼かった私が直覚した、大人の罪悪というものが、あのエナメルにはすべて詰め込まれていたのだ。
 
そして、その悪夢のような記憶をなぞるように、小学生の頃の私がエナメルをなめたということ。そこには何かしらの意味がかくされているように感じた。
 
自分の爪をなめて、丹念に想像しつくされた舌と指の感覚や、あの女のとった行動を自分のものとして体現すること。これは一つの反逆であったのではないだろうか。幼かった私のなかに確かに宿っていた悪というものを、自らが自らに示す行動ではなかったであろうか。
爪をなめた私よりも昔、爪におびえながら目を離すことのできなかった私。その私だって、目の前にエナメルのぬられた爪があれば、きっとそれをなめたであろう。舌にふれるなめらかなエナメルの感触、透明な塩の結晶が味蕾を刺す感覚。私のなかでかわらずに存在しつづける、いつ生まれたのかもわからない、悪しきものへの憬れ。

二つの記憶を吟味すればするほど、私のなかに、私の成長とはまったく切り離された原始的な種のようなものがあるように感じられた。不思議な感覚だった。