合者離之始、楽兮憂所伏

人とつきあうとき、会うは別れの始め、をかならず考えている。このふるい言葉を辞書で読んだとき、自分が考えていたこととあまりに重なりすぎていて、みょうな気持ちになった。けれど、ぼくのような若造が、人と会うときにまずもって別れを考えるのはいけないことなのかもしれないと思った。それに、このふるい言葉が示すのは、この世は無常であるからこそ出会いを大切にしようってことなのではないだろうか。たんに会うは別れの始めだということを言っているわけではないのだろう。辞書には「出会ったときから別れは始まっているという意味で、会った人とは必ずいつか別れるものだということ。人生の無常を表している」というほかに何も書いていないけれど、そう思う。無常観を考え無しにそのまんま受け容れたら、ぼくは世の中を悟るどころか、諦念のかたまりになってしまう気がする。
人と出会う瞬間にその人との別れについて思いをめぐらせるぼくはいつもしらけていて、調子がよくて、つめたい。さようならの時をまちわびているようだ。でも本当はそんなわけじゃなくて、ただ人に優しくしたいだけなんだけど、いかんせん、自分が傷つくことが一番怖いっていう、甘えた考えがあるから、いつまでも人に優しくなれない。だから少しずつ自分の中のものを天秤にかけて、おもてにさらして、傷に耐えてゆく訓練をしなければ、熟れすぎたトマトみたいに、ひとりぼっちの重さにつぶれてしまう気がする。たとえば自分の愛情なんていう、貝の身みたいにヤワなものを懸けなければ手にはいらないようなものが目の前にあったとして(それはおそらく自分にとってものすごく大切なものだろう)、甘えた恐れがまだ自分のなかにあったら、ぼくはそれを決して手に入れることができないだろう。福永武彦の小説を読むと、よくこういうことについて考える。でもさ、実際のところ、本で読んだり考えたりするのとは、きっと全く違うんだろうな。経験がないからわかんないよね。なかなか難しいもんだ。