最近は父や母や友人に手紙を書いている。

父への手紙は私への不信感や不安を抱いているらしい彼を少しでも懐柔できないかなという淡い期待から。毎月一、二回、有名な画家の絵はがきに当たり障りない話題や絵の話を書く。

友人との手紙は安心する。メールやツイッターなんかよりもずっといいのだ。手書きの文字や絵には魔法みたいにふしぎな力がある。きっと、脳みそがよく働いて、より質のよい情報を選り分けるのに、手紙を手で書く速度がいいんじゃないかしら。

インターネットを見ていたらよくイライラしてしまうのは、自分に似た「インターネットをするタイプの人間」が多いからなんだろう。思春期を引きずる大人をのぞきみる趣味の悪い露悪的な遊びはそれ自体私が思春期のなかにいることを仄めかしているような気がしていやだから最近はしない。


昨年は頭がおかしくて、毎日同居人を罵り、道端で叫び、地団駄をふんで号泣していた。最近もそういったことはあるが、昨年ほどではないと言われた。
カウンセリングや同居人との対話で不信感や罪悪感が表出したのだと思う。孤児の感覚。お家に帰りたいとよく呟いて泣いた。

いまはそういったことはない。自分や他人に暴力をふるう必要がなくなってきた。
昨年は自分をふくむ全ての他人から殺されると信じていた。どんなときでも私はおそろしかったのでよくしゃべっていたし、ゲラゲラゲラゲラ笑って、次の瞬間叫んで泣いていた。
傷ついていただけだったのだ。悲しかっただけ。理不尽な行いをされたのに、謝られなかった。そういったちいさな出来事が、言葉にされないまま、うやむやのまま、おりのようにたまって、私のからだに重石をつけてしまっただけなのだ。
言葉とは呪いで、呪いは言葉によってとける。本当はなにもなかったのに

なんだったんだろう。疲れていたし、悲しかったのだ。悲しい気持ちをありのままに置いておく場所がなくて、私は苦しく怒り憎んでいたのだと思う。
全てが終わったような顔はできない。みな地続きであやういのだ、私が意思をもって常に私の居場所を確保してやらねば、私が私をまた追いかけてきて引きずりまわすのだろう。
愛が大切だ。愛は何もできないししない。ただ愛しいはかなしいと読む。それが大切だ。愛されたらセロトニンが出て、セロトニンがでると人生がうまくいきやすいという。愛は大切なのだ。悲しさは大切なことなのだと思う。

そういう実感を二年で持った。